労基署の是正勧告に応じた賃金支払いにおける注意点

労基署の是正勧告に応じた賃金支払いにおける注意点

 

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1 労基署の是正勧告に対して何となく支払った場合に起きる悲劇

企業から「労基署の是正勧告に応じて○○万円を支払いました」と聞くと、思わずヒヤリとすることがあります。実例を交えて紹介します。

Y社はXを雇用し、Xは令和3年1月1日から令和6年12月31日まで勤務(4年間)をしたと仮定します(賃金は当月月末払い)。Xが労基署に相談し、労基署よりY社に対して、未払い賃金(未払い残業代)を支払うよう是正勧告が出たとします。

Y社は、未払い残業代はほとんどないと認識していましたが、Y社の算定した未払い残業代のみを支払うこととし、Xに対して何ら連絡や通知をせず、令和7年2月1日に未払い残業代30万円を振り込みました。

Xは、Y社から振り込まれた金額では到底納得できず、弁護士に依頼をして、事前の内容証明郵便などでの催告を行わず令和7年4月1日に訴訟提起をしました。

この段階で思わぬ事態が起きます。

(1)支払った30万円が入社当初の令和3年1月1日からの未払い残業代に充当される

Y社は30万円を支払いましたが、労基署の指導に従っただけであり、未払い残業代の支払い期間をXに通知しませんでした。

裁判所は、どの期間の未払い残業代について支払ったのか明示して支払ったものではないので、民法489条3号により、弁済期が先に到来した債務から順次(支払いが)充当されるものとして、30万円は令和3年1月1日からの未払い残業代の支払いに充当されることになりました。

Y社としては、そのような意図が無かったため驚きました。ところがそれだけでは終わりませんでした。

(2)入社時からの未払い残業代(4年分)の消滅時効が中断する

Y社としては、令和7年3月31日から3年以上前の未払い残業代については消滅時効にかかっていると考えていました。そこでY社は、令和3年1月1日から令和4年3月31日までの期間については消滅時効を援用して、時効消滅を主張しました。

しかし、裁判所は「Y社は令和3年1月1日からの未払い残業代を支払ったため、(時効中断事由である)債務の承認に該当し、全体について消滅時効が中断しています。そのため、Y社の消滅時効の援用は認められませんので、4年分支払ってください」と判断しました。Y社の担当者は思わぬ判断に呆然としました。

2 裁判例(東京地裁令和3年10月14日判決)

まさに上記内容が問題となった裁判例(東京地裁令和3年10月14日判決)をご紹介いたします。

(1)事案

平成27年4月27日から平成29年7月4日までの間、原告らは被告のもとで勤務していました。この期間を通じて時間外労働に対する賃金の未払い問題が発生していました。

平成29年8月29日には、労働基準監督署が時間外労働の未払いについて是正勧告を行いました。これを受けて、被告は平成29年10月26日に一部の未払い賃金を支払いました。

平成30年3月20日、原告らは内容証明郵便を送付し、未払い賃金の請求を行いました。この内容証明は平成30年3月22日に被告に到達し、平成30年3月30日には被告が「未払いはない」とする回答書を原告らに送付しました。しかし、原告らは納得せず、平成30年5月31日に未払い賃金および寮費控除の違法性を主張して訴訟を提起しました。

裁判の進行において、平成30年9月12日には被告が第1回弁論準備手続において消滅時効の援用を主張しました。

本件において、労働基準監督署からの是正勧告を受けた被告は、平成29年10月26日に原告らに対して未払いの時間外労働賃金の一部を支払いました。この支払いが、未払い賃金の存在を認める「債務の承認」に該当し、時効の中断事由になるか否かが問題になりました。

(2)判決内容

被告は、是正勧告が平成28年1月21日以降の未払い賃金に関するものであるため、債務承認の範囲もその期間に限定されると主張しました。

しかし、裁判所は、原告らは労働基準監督署に対して全期間の未払い賃金の支払いを求めており、同署が特定の期間に限って指導した証拠もないことから、被告の支払いは、弁済期が先に到来した債務から順次充当されるものとされました(民法489条3号)。そのため、原告らは、被告が自らの全勤務期間の未払い賃金の一部を支払ったと認識し、時効中断のための権利行使を控えたのであるから、原告らについては、全期間の未払い賃金について時効が中断していると判断しました。

3 支払い対象期間を何も通知せず漫然と未払い残業代を支払うのはとても危険である

実務上、私はこの種のトラブルを何件か経験しています。労働者側代理人弁護士がこの論点に気づかないこともありましたが、ある案件ではまさにこの事案と同様の内容を労働者側代理人弁護士が主張して、裁判所がその主張を本件と同様にそのまま採用してしまい驚いたことがあります(結果的に和解で終了しました)。

労基署の是正勧告に応じて、渋々、未払い残業代を支払うことはありうると思いますが、意外と何の通知もせず対象従業員の給与振込口座に振り込むだけでそのまま放置していることがあります。これは非常に危険です。

したがって、労基署の是正勧告に従い未払い残業代を支払う場合、以下の点に留意する必要があります。

・いつからいつまでの期間の未払い残業代についていくら支払ったのかを対象(元)従業員に通知する
・消滅時効にかかっていると思われる期間については消滅時効を援用する(消滅時効を援用しないと債権は消滅時効では消えません)

言われてみれば大したことではないのですが、未払い残業代を支払う際、上記の通り、通知なり消滅時効の援用をしないと思わぬ形で時効が中断してしまうため注意が必要です。

 


 

この記事の監修者:向井蘭弁護士


護士 向井蘭(むかい らん)

杜若経営法律事務所 弁護士
弁護士 向井蘭(むかい らん)

【プロフィール】
弁護士。
1997年東北大学法学部卒業、2003年弁護士登録(第一東京弁護士会所属)。
同年、狩野祐光法律事務所(現杜若経営法律事務所)に入所。
経営法曹会議会員。
労働法務を専門とし使用者側の労働事件を主に取り扱う事務所に所属。
これまで、過労死訴訟、解雇訴訟、石綿じん肺訴訟。賃金削減(就業規則不利益変更無効)事件、男女差別訴訟、団体交渉拒否・不誠実団体交渉救済申立事件、昇格差別事件(組合間差別)など、主に労働組合対応が必要とされる労働事件に関与。近年、企業法務担当者向けの労働問題に関するセミナー講師を務める他、労働関連誌への執筆も多数

当事務所では労働問題に役立つ情報を発信しています。

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